『Ashes and Snow』(グレゴリー・コルベール展)@ノマディック美術館

Peppino2007-04-16



人間とそれ以外の関係性に焦点を当てていることにまず気づく。あたかも、人間とそれ以外は根源的なところで同一のものとして見れるんですよ。と言わんばかりの作品群である。*1

何がこう思わせるのか。写真や映像にうつる人間の「人間らしさ」*2と「人間らしくなさ」*3と、さらに動物の「動物らしさ」*4というものが、動物の「動物らしくなさ」を鑑賞者の意識の中に仮に生み出すことによって、両者の存在的乖離に架橋的な役割を果たしていることに気づく。そう捉えたうえで、コルベールは、動物と人間の存在的乖離を無に帰すような普遍的な原風景をただただつくりたかったのだろうと思うと、その作品を生み出すためにさまざまな作為的な側面*5が見られるのは当然である。というか全てが作為であってもいいくらい。

しかし、この結果生み出された人間と動物との根源的な同一性みたいな効果は、同時に両者の、到底埋められぬ絶望的なまでの断絶を目の当たりにさせていると思う。
逆もまた真なり。である。

例えば鳥の羽を持ち、今にも羽ばたかんとする人間。
例えば鯨と戯れ、一人水面に逆戻りする人間。
人間として生まれたコルベールの悲哀にも似たイメジャリーを観た気がしました。チャンチャン。

*1:もののけ姫と比較すると面白いようなつまらないような笑

*2:人間らしさとは、例えば人間そのものの身体的特徴であったり、本を読む行為など。

*3:人間らしくなさとはほとんどの人間が感情を持たぬかのように目をつむっていることだとか、動物にその身をあずけて自発的には動かないことなど。全身全霊で無表情というものを表現しているかのような振る舞いを指す。

*4:動物らしさとは、人間側が動物を観察したときに、この行動は動物らしい。と示すもののことではなくて、本来人間からは推測つかぬ彼らなりの意志を持った行動のことを指す。なので、具体的にどの動物のどのシーンかは挙げない。

*5:ハイエナの餌だとか、動物を扱う上でのいろいろな工夫。計算しつくされた構図や動き。背景が消えていること。などなどさまざま。